ただいま、成都にいます。明日、帰国します。
今日まで2泊3日で、綿竹という場所にある避難所に行って活動してきた。今回の第二次派遣では、前半は北京と重慶、そして後半は成都の西華大学での研修と私たちの避難所チームの2つに分かた。避難所チームは、高橋先生と黄くんと私の3名。
綿竹の避難所には1万人の人が避難していた。到るところに青いテントが続く光景はこれまでに見たことがないもので、気温は35度以上・・・。テントに入るとさらに蒸していた。
避難所では多くの子どもたちと遊んだ。そして遊びを通して、子どもの状況をアセスメントをし、そしてカウンセリング的な関わりをしていきた。もう、出たところ勝負のライブ。これまでの臨床経験を総動員して、遊びまくった(笑)。わからないところは、経験豊富な高橋先生がたばこを吸いながら温かく見守ってくれていたので(笑)、確認しながらできたという安心感があった。そして、高橋先生が「自由に、しゃおりんのやりたいようにやりなよ」という言葉でどんなに楽に動けたことか(笑)(日本チーム、そして中国の人たちからしゃおりんと呼ばれています。「小林」の中国の読み方です)。
印象的なケースは、3才と14歳の女の子・・・。3歳の女の子は、地震の時に幼稚園の先生がとっさに彼女を2階から投げて助かった子。退行と脅えがひどく、私が近づいた時は母親の腕の中から離れなかった。それをパンダのぬいぐるみを使って関わり、母親から離れて、自由に遊ぶことができるようになった。これは私の力ではなく、パンダのぬいぐるみの魅力とその子が持っていた力を引き出せだのだと思う。その笑顔に私の方も元気をたくさんもらった。
14歳の女の子は、みんなが集まっているのになんだか元気がないので、なんとなく気になって個別に声をかけた。「何かできることある?」と聞いたら、「一緒にテントに行こう」と誘われ、彼女の家族が暮らしているテントに招待を受けた。黄くんと二人でテントに行き、家族たちと話をした。いろいろと関わる中で、彼女とそのいとこの2人で個別に話をすることになった。予想通り、「何かある」感じで、でも今日私たちは避難所を去らなくてはいけない。関わりの加減にとても迷った。そして、いろいろと話しているうちに彼女がぽろりと泣き始めた。(今、このブログを書いていて、う~んうまく書けないので省略します笑)。最後に彼女から「また来てほしい」と言われた。人として、支援者として「また来るね」と約束した(臨床的にはいろいろとコメントがつく点だと思うが、その場面で最も適切なことばだと判断した)。
彼らの避難生活はまだまだ続く。来月には仮設に移れる予定だけれど、家、土地、そして家族や友人も失った彼らの生活はなかなか元には戻れない。ここ数ヵ月の支援ではなく、ずっと支援が必要である。中国の支援者とともに彼らを支援していきたいと強く思った。
継続した日本から支援を行うには学会や協会といった民間レベルの支援だけでなく、政府レベルの確かなバックが必要である。彼女との約束を果たすために、できることはやろうと思っている。そして、このブログを読んだ方々にもぜひお力添えを頂けたらと思う。